月組公演THE LAST PARTY感想~オペラグラスは必要ない~
『THE LAST PARTY ~S.Fitzgerald's last day~』フィッツジェラルド最後の一日
この作品を観るのにオペラは必要ない。
何故ならば、セットも照明も小道具も人も全てが揃って初めてフィッツジェラルドの世界が舞台上に成り立つと思うから。
その中では登場人物も舞台のイチ構成要素に過ぎない。
だから、誰かひとりだけを見ていてはこの作品の本質的素晴らしさに出会えないであろう。
これこそまさに総合芸術である。
...はい、ラスパに影響されてちょっとカチッとした文で感想書けないかなぁ~と試みたのですが、書きながら自分でお前何様だよ!となり無理でした(´>∀<`)ゝ
語彙力も足んないし、慣れないことはするもんじゃないですね!
ここからはいつも通りに戻します(笑)
いやー、本当に良かったよ( *˙ω˙*)و グッ!
普段、美弥ちゃんがいなくなっちゃうよ~(><)
みたいな理由で(主にフィナーレで)号泣してることが殆どだけど(笑)
今回は“舞台”に泣かせられました。
1幕は終わりでは、おー、凄い良作だな~♪位のテンションで、流石に泣くことはないだろうと思っていたのですが...
いきなりです。
フィッツジェラルド最後のとき、死ぬまでのナレーション付きでひとつひとつの動作がなされていく場面。
プリンストン大学の学報に目を通し、
(。•́ - •̀。)
チョコレートバーを齧り、
( ´^`° )
暖炉の方へ歩いていき、突然...床に倒れ込む。
(╥﹏╥)…
自然とツーっと涙が流れる感じで...別に悲しいわけでは無いんですけどね...何か心にグッとくるものがありました。
さて、そんな月組公演THE LAST PARTYの感想を書いていこうと思います\(^o^)/
色が無いからこそ出来た舞台
前述した“登場人物も舞台のイチ構成要素に過ぎない”というのは本当に強く感じて、舞台を通してステキなご贔屓様自身を楽しむのを前提に作られてる(そう感じる)宝塚では、珍しいな~と初心者ながら思いました(・。・)
初演を見てないので他の人がやったらどうなるのか知りませんが、この仕上がりになったのは一重にれいこちゃんだからこそだと思います。
以前から、れいこちゃんって歌も踊りも芝居も器用に出来て、顔も美形過ぎて、なんと言うか色が薄い...なんて思ったりもしまして...全ツのクリタカの時遠くからだとパッと出てきた時にれいこちゃんだって分からなかったんです(._.)
番手的にあれがれいこちゃんなんだろーなーみたいな。
(母がれいこちゃんを見て顔が器用貧乏って言ってたのがすごく記憶に残ってます)
でも、本人の色が薄いからこそ役に染まれる。
ラスパはそんなれいこちゃんの特性をフルで有効活用していたと思います!
無理に役を自己流にアレンジして自分に合わせようとするのではなく、役をそのまま自分に入れ込むことが出来たからこそ、“イチ構成要素”に徹する事が出来て、この舞台の均衡は崩れなかったんじゃないかな♪
また、れいこちゃんだけではなくうみちゃんも染まれる役者なので、この“月城×海乃”のコンビはこの作品に凄くピッタリな人選だったと思います。
あと、うみちゃん。
よく華がないって声を聞きますが、確かに本人に派手さはあまり感じなくても“派手な華のある役”はしっかり出来ていました((・・*)
世界恐慌前にクラブで派手に遊んでる姿は、違和感は無かったよ!ちゃんと華があってクラブの中心だったよ!
...いやー、他の人達も良かったんだけど、このふたりは本当にアッパレ(๑°ㅁ°๑)‼✧
そんな事を考えていたら、ふと思ったんですけど...
美形過ぎて舞台で上手く個性を爆発させきれてないのって、案外宝塚ジェンヌとしては良いのかもなぁ...なんて♪
超美形だからファンはつくし、舞台では役者として役に染まれるっていうヾ(*´∀`*)ノ
盆がない梅芸の上手い使い方
この作品、れいこちゃん演じる誰かがフィッツジェラルドを演じるという様に、舞台の中で舞台をするという設定です。
私達観客はラスパの観客であり、同時にこの“誰か”がフィッツジェラルドを演じる舞台の観客でもあります。
この“誰か”が出てくるのは最初と最後だけのほんの少しだけですが、
舞台の真ん中に大きな板があってその上で基本的に演技してたり、小道具は役者が全て自分で持ってきて自分で片付けてたり、偶然だろうけど後ろの幕が透けて奥にいる演奏の人達が見えたり...etc
により、常にこれはお芝居なんですよ~ってのを示していて面白かったです(*' ')*
それを感じる為には、出来ればオペラを使わず、舞台の端から端まで...つまり、この舞台(ラスパ)の世界の端ともう一つ(舞台の中の)舞台の端を同時に視界に入れながら見るのがベストだと思います!
そうすると本当にあの白い箱の中の板の上だけ別世界が動いてる様に錯覚する事が出来ます!!
そして、そことの対比により舞台の上なのに板より前に出てくると、まるで舞台から飛び出して来たみたいに感じる..
そんな気がしました(*´╰╯`๓)♪
盆が無いため、セットチェンジが出来ないというハンデを逆手に取った、巧妙な演出でした。
植木先生うまいっっっ(*゚▽゚ノノ゙☆パチパチ!!!
全体を通しての感想
そもそも、れいこちゃんが神経質な役をやると聞いて
絶対似合う(_๑òωó)_バァン
と期待していたのですが、予想の遥か斜め上を行かれた!
観劇前ネットで調べた感じだともっとズーンと重くって、救いのない話かと思いましたが、そこまでは無かったです。
そう思えたのはこの話が舞台の中の舞台の話だからかもしれません。
本当にこの設定を有効活用してて、終わり方とかもうね...凄く説明しにくいんだけど、とりあえずフィッツジェラルドが書いた本を1冊ずつ登場人物全員が持って1列に並ぶって絵面は凄くキレイで説得力があり、大好きですヽ(*´∀`)ノ
ラストで登場人物全員集合はアリがちだけど、ここでは“中の舞台”のフィナーレの様でした♪
全く欠点が見つからないと言っていいほど完璧に完成されたこの作品。
もちろん普段のオペラでロックオンしてご贔屓様キャー!カッコイイー(≧∇≦)な宝塚作品もいいですが、
たまにこんなオペラを置いて舞台自体に魅せられる作品も良いなぁ...と思いつつ、すこぶる分かりにくい感想でしたが終わりとさせていただきます。
ここまで読んで頂きありがとうございます^^
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追記
余談ですが、フィッツジェラルドが売れなくなってからもハリウッドで映画の脚本家を出来たのは丁度トーキーへの移行期のためとりあえず大量の脚本家を必要としていたからなんですね...そうです、トーキーへの移行期。この同じ時代、同じハリウッドにドン&コズモもいるんです(>∀<)/
地位や名声に執着しまくってて病んでしまうフィッツジェラルドとまた貧乏になっても靴磨きでもしてればいいさ♪なんて言ってるドン&コズモが、ハリウッドですれ違ってるかもと思うと、想像だけでウキウキですねo(*゚▽゚)o
これはタカスペのパロで使ったりしないかな??
ちなみに、フィッツジェラルドがハリウッドに行くのは結構後なので、その頃ドン&コズモは偉くなってるでしょうからコズモにフィッツジェラルドが雇われて、ドン主演の映画の脚本を書くなんてコントはどうでしょうヽ(^∀^*)ノ